昨日はずっと泣いていた
下向きの眉毛と姉の呪い
下がり眉を上げ眉にしなさい!とアドバイスを受けた。
鏡でじっくり眉を観察していると、自分は毛根の並びだけ見ると上がり眉だが、ほとんどの毛が下向きに生えているのに気付いた。
そこで眉毛をすべて剃り、毛根に沿って眉を描いてみた。
顔が引き締まった。
弱気な「僕」はそこにいなかった。
そういえば、昔、同じように上がり眉をつくったことがあったことを思い出した。
姉は俺を見て嘲笑した。「下がり眉がコンプレックスなの?w」
あの頃から、俺は上がり眉をかけなくなった。
小さい頃、姉の写真をハサミで切り刻んでいたことを思い出す。
姉は俺のことを憎んでいた。姉と母は結託して俺をいじめ抜いた。
おそらく当人たちにその意識はないだろう。むしろものすごく心配して世話を焼いたと思っているだろう。
けれども俺には呪いがかかっている。
いつもいつも、何かをしようとささやかれる、呪いだ。
「お前には何もできない」
「お前がやることは間違っている」
「お前は醜い」
姉は俺の容姿がほめられると、絶対に否定した。
おばさんが俺の赤ん坊のころの写真を見て「まあかわいい」というと、映りの悪い写真を探し出してきた、「これ、誰に似たんだろうねぇ?www」と言いながらこれよみがしに突きつけてきた。
姉との喧嘩は腕でも口でも勝てなかった。
俺は呪われている。
それは心の底から響いてくる呪いだ。
どす黒いもやもやとした足枷だ。
真綿で首をゆっくりしめられるような苦しみだ。
「お前には何もできない」
「お前のやることは間違っている」
「お前は醜い」
人生に行き詰りを感じている
やらなきゃいけないことはわかっている。
でもやる気が出ん。
もう無理や、ゆーて、全部放り投げだしたくなる。
でも放り出す先もない。
苦しいわ。
どこまでこの苦しい状態で踏ん張れるか。
ここが踏ん張りどころ、正念場。
「助けて」という言葉には千金の価値がある
「助けて」といえない人間だった。
どこかで周りを見下していたのかもしれない。(冷静に考えれば見下されるべきは自分だ畜生)
そもそも自分がどうしたいのか何がしたいのか何を求めているのかわからなかった。
だから助けを求めることが出来なかったのかもしれない。
姉に言われた。お前は感謝が出来ない人間なのだと。
けれど思う。一体何に感謝すればいいのだと。私がやりたかったことなんて一つもやらせてもらえなかったじゃないか。全部全部全部全部お前らに押し付けられたことじゃなかったかと。
NOといえなかった。ただ「行かない」「やらない」ことでしか拒絶の意思を示すことが出来なかった。
「行かない」「やらない」ことがすでに意思表示なので、「だから助けて」とはならなかった。
やりたいことがあって、何を求めているか自分で自分がわかってて。
それで、はじめて「助けて」がいえる。
そして「助けて」といえて気づいたこと。
世の中は助けたい人であふれている。
「助ける」ことは人間にとって生まれながらに備わった喜びであるということ。
だからこそ、人間はこんなに複雑ですばらしい(そして醜い)世界を作り上げることができたのだということ。
(相手に「自分、利用されてるんじゃ……」って思われたら終わりだけどね! あと自分が人を助けることも大事)
だから、「助けて」と言ってもいいのだということ。
「助けて」と言ってその人が聞いてくれなくても、どんどんいろんな人に「助けて」といってもいいということ。
(人を頼ってばかりで自分が何もしない人は、「助けられる」ことで自分の価値を確かめたい、「助けられること」を求めてそれに価値を見出す人なんじゃないだろうか)
そして必ず助けは得られるということ。
助けが得られない場合、たぶん「助けて」という先が間違ってるのだ。
ニート脱出法を真剣に考えてみた
ちなみにニートとは「働いているわけでもないし、どこかの学校で勉強しているわけでもないし、そのための訓練をしているわけでもない」のが一応の定義だから、「学生ニート」とかニートという言葉を援用したようなものは今回は含まない。
まずは、ニートのままでいる場合。この場合は、とりあえずどこでもいいから病院にいってみることをオススメしたい。「ダルくてやる気が出ない」という状態にはけっこう深刻な病気が隠れていることもあるし、もし何もなければ最終的に精神科に回されることになるので、そこで受診してもらい、自立支援(医療費が1割負担になる)→精神障害者手帳&年金でとりあえず実家暮らしならば家計の足しになるくらいのお金がもらえる。医者・病院によってこうした社会的援助を受けられるようにすることに対し、積極的なところ・積極的でないところがあるので、場合によっては病院を変えたり医者を変えたりすることを検討しよう。(これは自分ではなく知り合いが実際に行ったケース)
今現在ニートで、なおかつ抜け出したいと思っている場合。ニートは高校中退していることが多い気がするが、とりあえず高認か通信・NHK学園・夜間なんでもいいのでとりあえず大学or専門学校入学資格を取ろう。高認が一番お金がかからないけど、高認は「高校卒業程度の学力があることを証明しますよ」っていうわけで、実はとったとしても中卒のままである。履歴書には○○中学卒業、✗✗大学入学と書き、資格欄に高認と書くことになる。(一応俺の場合は高認合格もなんとなくはさんでおいたが)
ニートを脱出するのにオススメなのは「短期でどこかに通って取れる資格」である。短期なのは、大体ニートというものは(俺を含めて)継続力に乏しいことが多いから。挫折したらまた自尊心が折れてやる気を失うし、なるべく挫折しなさそうなものを選ぼう。「どこかに通って」というのは最終的にニートを脱出することを考えれば外に出る訓練は必須であるので、大事かなと。「資格が取れる」というのは、なんでもいいから、形として「これをとった」っていうのがあると、自尊心の回復につながる。ニートに足りないのは「自尊心」である。
車の免許とかオススメ。短期なら数週間で取ることも可能である。適度に勉強もできるし。2月3月の高校卒業生ラッシュと8月9月の大学生ラッシュを避けて、10月とかがいいんじゃないかなあと思う。とにかく人がいない時を狙ってひっそりとろう。ただ車の免許取得には合計30万くらいかかるから、けっこうお金かかるよね。
一日だけのアルバイトとかもいいと思う。お金も入ってくるし。田舎だと求人がないのが問題だけど。
お金に余裕がある場合(まあ奨学金借りてもいいけど)、大学・専門学校もオススメ。上の理論でいくと、2年で何かの資格が取れる医療系専門学校とか、短大とかがいいとは思うが、そういう場合、けっこう勉強量がつめこまれるので、ちょっと悩みどころである。学校によってはかなり不登校対策に力を入れているところもあるので、オープンキャンパスなどに通って、フォロー体制の充実しているところを選ぶべし!
大学の場合は電電とかオススメ。
引っ越しのときの私的ポイントまとめ
2~3月などの忙しい時期はのぞく
4~5月くらいが不動産屋も引っ越し業界も暇でゆっくり探せる。(物件の数は限られるかもしれない)10月~11月くらいもいいんじゃないかな。
不動産は最低3個はまわる
不動産屋さんには、地域密着型と大手チェーン型がある。地域密着型は掘り出し物件が多く、独占している物件も多い。(大手チェーンの場合は大体他所の不動産屋さんと物件情報を共有している場合が多い)
おすすめなのは、住みたい地域をぐるぐる歩いて回ること。大体の賃貸物件には不動産屋さんの看板やプレートがあるので、「○○不動産の物件が多いな」とか「○○の賃貸物件は新築アパートが多いけど、××の賃貸物件は古い感じの家が多いな」とかわかる。大手チェーン不動産の看板を掲げていても、昔ながらの地域密着型の不動産屋さんが看板だけ借りているような場合もある。
職場(or学校)に近い方がいいのか?遠い方がいいのか?
近いメリットとしては、睡眠時間がきっちり確保できる、忘れ物を取りに帰りやすい、昼休みに家でご飯を食べれる、くらいかな。
遠いメリットとしては、心理的に気が楽になるくらいしか思いつかない。不便なところだと家賃が安かったりするけどね。
木造なのか?鉄筋コンクリートなのか?重量鉄筋なのか?
全力で鉄筋コンクリートをおススメしたい。木造は音が響きすぎて鬱になる。鉄筋コンクリートは湿気やすいという欠点もあるしね。重量鉄筋はわりと静からしいけど、やっぱり鉄筋コンクリートがお勧め。
家賃はどれくらいがちょうどいいのか?
お金については、2年借りると仮定して、「家賃+24で割った礼金+ガス代+電気代+水道代+インターネット代」で考えるべきだ。家賃50000円として礼金が一か月分であった場合、月々2000円ちょっとくらいになる。そしたら礼金なし52000円と同じようなものだ。あとガス代。これ本当に馬鹿にならない。温度調節ができるところを全力でおすすめする。24時間わかしっぱなしであほみたいにガス代のかかる物件が存在するのだ。電気代・水道代などはたいして変わらないのでどこでもいいと思うが、一応個別に水道代が徴収される場合と、アパートで一律何千円って決まっている場合がある。
というわけで家賃だけで考えないことをおススメする。ネット無料の物件もあるしね。
学ぶということ
「やるおで何も学ばせない!!絶対にだ!!」
という短編やる夫作品がある。
これを読んだときは衝撃だった。
自分のもやもや感じていた違和感を突きつけられるようだった。
『お前の増やしているのは知識ではなくテンプレートだ』
ううう。突き刺さるぅ。
でもそのテンプレが必要なときもあるよね、業務的に。義務的に。
それをテンプレだと割り切ってるか、自覚してるかどうか、かな。
以下、孫引き。たまたまググったら出てきた。
春日:僕は,そういう「中途半端なところで時間が経過するのを我慢できるかどうか」っていうのが,援助者の実力の1つだと思っています。それは言い換えれば,精神の健全さの指標です。我慢できない人は,お手軽なストーリーを借りて妄想に走ることになる。そういう意味では,内田先生が今回の『死と身体』で書かれていた「中腰で我慢する力」というのはまさに,そういう力のことを言ってるのだと思いました。 内田:そうですね。知性というと,だいたい「精密さ」とか「正しさ」といった,クオリティのほうを想定しがちですよね。でも僕はもうちょっと「フィジカルな知性」が重要だと考えていて,それを今回の本では「中腰」とか「知的肺活量」という言葉で説明しました。 おそらく医学もそうだと思いますが,自然科学では,ある仮説が駄目になった後,次の有効な仮説が出てこない過渡期みたいな時期というのが,必ずあるんですね。そういうパラダイムとパラダイムの端境期には必ず混乱が起きるのですが,クリアカットな論理を好む人というのはそういう時,古い理論にしがみつくか,まだ不安定な新しい理論にパッと乗り移ってしまうかのどっちかになってしまうことが多い。 でも実際には,そうした時期には新しいところもつまみ食いしながら,古い理論の使えるところも取るというような,いい加減で,中途半端なやり方が必要なんです。 そういう端境期の「酸欠状態」を,息を止めて「グッ」と我慢する。それは,普通考えられているよりもずっとフィジカルな知性のあり方だと思います。瞬間的な判断力じゃなくて,どれくらいの時間,判断を保留したまま我慢できるのか。こういう「知性の量的な側面」というのは,なかなか問題にされてこなかったと思います。
教授挨拶 より 書いてることも素晴らしい!
さあ、家から出よう(´・ω・`)