GuzuHacker

グズがなんとかsurviveしようとするブログ

学ぶということ

「やるおで何も学ばせない!!絶対にだ!!」

という短編やる夫作品がある。

これを読んだときは衝撃だった。

自分のもやもや感じていた違和感を突きつけられるようだった。

『お前の増やしているのは知識ではなくテンプレートだ』

ううう。突き刺さるぅ。

でもそのテンプレが必要なときもあるよね、業務的に。義務的に。

それをテンプレだと割り切ってるか、自覚してるかどうか、かな。

 

以下、孫引き。たまたまググったら出てきた。

春日:僕は,そういう「中途半端なところで時間が経過するのを我慢できるかどうか」っていうのが,援助者の実力の1つだと思っています。それは言い換えれば,精神の健全さの指標です。我慢できない人は,お手軽なストーリーを借りて妄想に走ることになる。そういう意味では,内田先生が今回の『死と身体』で書かれていた「中腰で我慢する力」というのはまさに,そういう力のことを言ってるのだと思いました。 内田:そうですね。知性というと,だいたい「精密さ」とか「正しさ」といった,クオリティのほうを想定しがちですよね。でも僕はもうちょっと「フィジカルな知性」が重要だと考えていて,それを今回の本では「中腰」とか「知的肺活量」という言葉で説明しました。 おそらく医学もそうだと思いますが,自然科学では,ある仮説が駄目になった後,次の有効な仮説が出てこない過渡期みたいな時期というのが,必ずあるんですね。そういうパラダイムパラダイムの端境期には必ず混乱が起きるのですが,クリアカットな論理を好む人というのはそういう時,古い理論にしがみつくか,まだ不安定な新しい理論にパッと乗り移ってしまうかのどっちかになってしまうことが多い。 でも実際には,そうした時期には新しいところもつまみ食いしながら,古い理論の使えるところも取るというような,いい加減で,中途半端なやり方が必要なんです。 そういう端境期の「酸欠状態」を,息を止めて「グッ」と我慢する。それは,普通考えられているよりもずっとフィジカルな知性のあり方だと思います。瞬間的な判断力じゃなくて,どれくらいの時間,判断を保留したまま我慢できるのか。こういう「知性の量的な側面」というのは,なかなか問題にされてこなかったと思います。

週刊医学界新聞 「中腰で待つ援助論」春日武彦内田樹

教授挨拶 より 書いてることも素晴らしい!

 

さあ、家から出よう(´・ω・`)